昭和41年03月18日 朝の御理解



 昨夜、皆さんが帰られた後で、子供達と家内、妹、私達五人で、火鉢を囲んで色々信心話をさせて頂いた。もう信心の話をしておりますと、もう時間の経つのも忘れてしまう。一時過ぎましたから、もう一時過ぎたですよ。早く休まんですかと。休ませて貰ったんですけどもね。その中に私がお話をする事ですね。もうとに角この信心、この神様だけはね。もうずうから入ったものにや勝たんち。
 いくら例えばお広前の中に、いわばほんならここで、私のことを親先生とこう仰る。親先生に対する所の親奥様でありましても、親先生のお子供さんでありましても、親先生のお妹さんでありましても、皆さんが、例えば「お」を、おつけ下さって、親奥様とか、お妹さんとか、お子さんとか、こう言うて下さる様であっても、神様は決してそう云う事はない。例え私の家内であろうが子供であろうが、用捨なさらない。
 もう本気で信心に打ち込む者にだけにしか、神様はおかげを下さらんのだと。神様はえこひいきは決してなさらん。もうとに角信心を銘々のものにしていく以外にやない。本気で本心の玉を研く事以外にやなか。本気で修業をさせて頂く以外にやなか。この事を分る。丁度十一時から二時間ちょっと、まあ何時も私共、寄りますと話は信心話。信心話はきりがない。そして、それが成る程、有難いお話をと云う事でもあるけれども、結局、結論する所はそこなんです。
 神様に本気で向かうか、向かわないかと云う事。この神様はごまかしがききなさらん。例えば、椛目のお広前だけでは、あの人は、どうしておかげを頂きなさらんじやろうかというごとあるけども、家に帰えんなさったらもう、あげな風に違うと云う様な話を聞く事がある。聞いてびっくりする事がある。いわゆる私みたいな、ではこの人がおかげを頂きなさらん筈はないばってというごとあるけども、その人が家に帰ったらまるっきり二重人格と思われる位に、打って変った生活状態というのが。
 あれで信心をしておるもんじやろうか、と云う様な状態で、おかげが頂ける筈はありませんよね。もう本当にそうですよ。この神様は、もう本当にそこんところをずうから行く人にや勝ちません。ですから、頭が良いとか悪いとか、器量がいいとか悪いとかじゃありません。もう、誠心誠意、神様に打ち向かうこと以外にありません。そう言う様な事を一つ、皆さんの心において。今日、私が今日の御理解は短いですから、そん中から一つおかげを頂くと云う事に付いての、ある面から見た所のおかげを一つ悟って頂きたい。分って頂きたいと、こう思うのです。
 先日、田主丸の小野先生が昨日、一昨日でしたか、毎朝参って見えられますが、お届けされておられます中に、最近、今年高校を卒業された娘さん達が二人、看護婦になられましてやって来た。始めの間は、病院の方でも使わずに、家事見習いの様な事から、一週間位日が経ったんです。丁度、手術がいくらもある日でした。それでその手術の方にちょっと手伝いさせられたんですね。
 ところが手術が始まったら一人は泣きだした。一人は真青になって逃げ出した。という話なんです。病院だからその手術がある様な事を、もう大体覚悟して来とったんであろうけども、実際は手術の場に当って、手術を見ておったらですね。もう真青になってしまって、もう倒れる様になった。一人はそれを見て泣きだしてしまった。これは、神経の作用だと、私は思うんですね。
 皆さんが例えば、こういう体験がおありになるでしょう。お食事をなさると、見た目にも綺麗なお料理がしてある。これは美味しかろうと思うて、はあ美味しかろうと思うて頂きよんなさった。所がです。そのおつゆならおつゆの中に、ハエが一匹落ち込んでおったのを後から気が付いた。知らんで飲んどったけども、後からハエが落ち込んだのが分ったら吐きたいごとなった。
 受け付けないんです。本当に吐いてしまう。又片付けておる中に、ほんな今まで美味しかったんですけども、ハエが入っておるのを見たらもう食べ様と気すらしなくなった。これなんかも神経の作用です。今日、私はその事をですね。私は皆さん分って頂きたいと、こう思うのですよ。毎日、お参りしよってから、一日お参りせんと気持ちの悪かけんで、やっぱ参って来ましたという人がある。
 そういう気持ちの悪かと云う事がおかげを頂かんのであり、気持ちの良いと云う事が、おかげを頂く事なんです。人間の、教祖の神様はそこんところをですね。おかげのあるも無きも、和賀心と仰る。いくら拝んだ所で、信心した所でです。こう云う様な自分でおかげを頂ける筈はないと思うてから、おかげを頂く筈がありませんでしょうが。ゴマかしばっかりしよっちやもん。
 先程も申します様にいくら、家庭の者であろうが、私のそれが家内であろうが、子供であろうがです。神様は先生の子供さんじやから、奥さんだからと言うて、容赦をなさらない。問題は本人の和賀心なのだから、結局、信心を本気でめいめいが自分のものにする以外にはない。そこで、ほんなら私がおかげを受けておるのは、どこにあるかと言うとですね。もう本当に信心を深めて行けば、行く程に、自分が分って来ると、いわゆる自分の汚い私と云う事が。
 けども私がここにゃおかげを、私が神経からでも、おかげを頂くと云う事はですね。今申します様に、この神様ばっかりは、ずうから行かなければおかげを頂けん神様だと思い込んでおる事なんですよ。その為に、例えば修業もいといません。本気で改まらせて頂く事に、研かせて頂く事に精進。研いても研いても、身が鉄であればです。矢張り時々、それこそなんかの錆が出ると言う風に錆も出ますけどもです。それをもう限りなく研いて行こうとする心がです。
 自分はこの位神様を思うておる。この位信心になろうと思うておる。この熱度がです。熱意がですね。自分がおかげを頂かん筈はなか。こう云う位、神様を一生懸命思うておるんじゃから、神様は自分の事を思うとって下さらん筈はないという神経がおかげを頂く、言わば元になって来るんです。おかげを受けると云う事。お徳を受けると云う事。真実に人間が幸福になると云う事。 
 それは私が今日申します様に、神経の作用と、神経からでのおかげを頂く、神経からでん美味しかと。神経からでん、もう今まで美味しかった思うとったのが、美味しくなくなる。言わば、もう見ただげでもう真青になって貧血を起こす。不思議なここに一つの継ながりというものを感ずるでしょうが、そこで私共がです、そういう例えば人間はそうした神経を持たないものはありません。神経からでも有難か。神経からでもおかげを頂くじやろうと、こう思う。
 見た目だけでも美味しかろうと思うと、ここから唾液が出で来るでしようが。梅干しなんかみてみると、もう見ただけで酸いかなんかここに上がって来るでしよう。そういう意味合いで、成程御神前なんか、御神前に座っただけでも、有難かた事ある風にしておかなあいけんち言う事が分るですね。ほらもう、てんで自分方のお神様はもうゴミだらけ。御榊は何時水を代えたか分らんごとしとる。
 それでおかげ頂ける筈はないと云う事です。勿論、それが今日、私は神経の面からだけお話しとるとですよね。それがどの位そうしなければおられないという心がです。神様を動かすという大きな働きになって来る事も別ですけども、今日はいわゆるおかげがあるもなきも和賀心と云う事から、今日はそこの面から話しておる。神経からでん、皆さんはおかげを頂いて貰わにやいかんですよ。
 そん為に私が申しております様に、私がおかげを頂くのはです。これで良いと何時も思ってないと云う事。もう、本当に本当に向上したいと思うておる。本気でもっと美しゅうなりたいと思うておる。本当に、ゴマかしどもがあって、おかげに出来る筈がないと思い込んでおるちゅう事。こん位の事は良かろうち、私の目はゴマかされても、神様の目はゴマかす事はでけない。
 あたしが見た目は、この人はおかげを頂けぬ筈はないと思うのに、おかげが頂けない。それこそ、ここでの生活と自分の家庭に帰ってからの生活が違う。自分の心の中に思いよりなさる。自分なこげなこすかこつばしょる。自分のこげな汚か事ば平気でやっとる。これじやおかげ頂けんじゃろう。おかげを頂けんし、そういう神経が、言うならば美味しい食物がです、途端にその汚いものが入っとった為に、もう美味しくなくなった。食べる気がしなくなった。
 だけど今まで頂いたものまで吐き出そう事ある風なものが起って来るのと同じ事。そういう作用です。だから信心とは、そういう意味合いです。ある意味で神経作用が、おかげを生みだして行ったり、おかげを落としたりする事に成るんで御座いますから、そこんところを、いかに大事にしなけれればならんかと言う事が分るでしょう。勿論、その事だけじやないですよ。信心とは。
 それは、例えば、神経と云う事は、今申します様にね。和賀心と言った様な事やらはね。全然関係なくてもおかげを受けておると云う事実があるでしょうが。例えば子供が病院の病室で、寝たぎり、信心のしの字もない。それに親が一生懸命、信心させて頂いてから子供がおかげを受けておると云う事実があるでしょうが。これなんかは、神経の作用に関係なく、しかしそういう働きがある神様、そういう力をもって御座る神様であると云う事と同時にです。
 おかげのあるもなきも和賀心。本当に、本気で成程と分れば分る程、美しい自分じやないけれども、限りなく美しゅうなろうと意欲する心、本気で研こう。本気で改まらせて頂こうと思う心がです。もう神経作用を起こすのです。この神様だけは、もうゴマかし半分じやでけん、ずうから頂ければと、その思い込みが修業になり、本気で御教えを行ずる事になり、そこにいわゆる自ずと神経からでもおしかごたる気色がする。神経からでも、おかげを頂くに違いないという心の中に、そういうものが頂けて来る。それがおかげを頂く元になると云う事。
 今日は神経だけでおかげを頂くのじやありませんけれどもです。例えばそうでしょうが。いかに見た目にやっぱデパートあたりの食堂に参りますと、こう作ったのがありましょうが。ライスカレーなら、ライスカレー。チキンライスならチキンライス。もうほんなごて、見ただけでよだれの出る事あるですもんね。ばってんそれががぶっとかぶりつきよると、ガジガジすると作ったやつじゃったと云う事であってはいけません。
 神経だかは。よだれの出る事あるけれど、食べてみたらガジッと来たと言った様な神様ではないと云う事。この神様はそんな作りもんじやないと云う事。本当に食べりや美味しいんだ。触れば暖かみを感じる神様だ。突けば血が飛び出る様な神様だ。それを私共が分からして頂いて同時に、和賀心をもってでも、おかげを頂く。それを仏教的な言葉でいうと自力とか他力とか云う様ですね。
 私もその事はよく知りません。もっと深い意味が御座いますでしょうね。自力とか他力とか。けれども、他力という、これはもう私共に関係のない、神様だけの働きがある事だけは間違いないです。けれども自分の自力によってです、おかげを頂いて行こうとする生き方もあります。その自力と他力が一つになって、混然としてです。特別の神様の働きを頂くと同時に、自分の心からも、おかげを頂ける状態というものを。
 自分で作らせて頂く事によって、神経からでもおかげを頂くに違いはない。間違いないというものから生まれて来る。いわゆるお話を頂かせて貰よって、見ただけでも貧血を起こす様に、見ただけでも言わば、梅干しを見てから、酸いものが、ここから上がって来る様にです。ここに付かせて頂いた途端に、なんとはなしに有難いものが湧いて来た。お話を聞いておるだけに。
 なんか知らんけど心から、なんか分らんけれど有難い涙がこぼれて来た。それなんだ。おかげを頂くのは。ところが、神経を大事にしなければなりません。為にひとつ本気で、私共はこの神様ばかりはずうから行かなければ、おかげのゴマかし半分じや頂ける神様じゃないと云う事を、分らせて貰うとです。本気で御教えに取り組ませて貰う。本気で教えを頂こうと云う事にも成って来るんです。  
   どうぞ。